そのボタンは必要か

はじめて意識したのは二十二歳ごろ、会社員をはじめたときだった。

大きなビルで毎日エレベーターに乗るようになって知ったのだが、人には開閉ボタンを押したがる習性があるようだ。出入り中は「開」を押し続け、終われば即座に「閉」を押す。

なぜ、ドアの開閉を支配したがるのか?

私にはその感覚が欠落している。ドアの開閉を支配したいという欲求がない。開閉ボタンの押下は、ほとんどの場面で無意味な動作としか思えないのだ。「開」を押さなくても挟まれることはまずないし、最近はセンサーもついている。

「閉」ボタンはとくに意味がない。観察して気づいたが、多くの場合ドアが閉まり始めた後に「閉」を押している。そもそも「閉」ボタンを反応しないようにしているエレベーターも少なくない。

また、似たものでは押しボタン式信号機なんかも大半のものが反応していないはずだが、やはり押している人は多い。どうやら世の中には無意味なボタンがたくさんあるようだ。

ボタンを省略する

私の主戦場であるディスプレイ上で考えてみる。

例えばなにかを入力して結果を出力するソフトがあるとして、よく見るUIに「実行ボタン」がある。

①値を入力する
②ボタンを押す→出力される

という図式なのだが、これ②いらなくないか?

内容にもよるがボタンを省略できるケースは多い。省略できるなら↓の方が効率的ではないか。

①値を入力する→出力される

このサイトでもちらほらツールを公開しているが、なるべくボタンを使わないようにしている。例えばテキストを整形するツールはボタンなしで実行するようにしており、入力すると即座に変換する。

ボタンはなんの気なしに置いてしまいがちなUIだが、ボタンなしでも成り立つなら、ない方が便利だ。

ボタンの持つ不思議な引力

しかしボタンには不思議な引力がある。便利不便利を超越した「押したい」という欲求、あれはなんなのだろう。

例えば幼いころの私は、バスの降車ボタンを押したくてしょうがなかった。だれかに先を越されようものなら泣いた、ギャン泣きした。今では意味がわからないが、今でも気持ちはわかる。恥ずかしながら告白させてもらえば、今でも押したい。降車ボタンには引力がある。

エレベーターの開閉ボタンを押す人も、意味を求めているのではなく、引力を感じているのだろうか。私が気まぐれで押したくもないボタンを押したとき、隣にいたおじさんは心でギャン泣きしていたのだろうか。

ハーバード大学の心理学教授であるエレン・J・ランガー氏が「ボタンを押す行為は認知制御として働く」と述べている。ボタンは機能しなくとも「ストレスを軽減し、幸福感を促進する」そうだ。

また、ドレクセル大学の心理学教授であるジョン・コウニオス氏は「押すことが無意味だと知っていても、人はボタンを押したがる」と述べている。「エレベーターのドアが閉まるという報酬は最終的に必ず発生するから」だそうだ。
(参考:Pushing That Crosswalk Button May Make You Feel Better, but …

なんだかボタンが尊いものに思えてきた。はたして「無意味だから失くせ」と切り捨ててよかったのだろうか。

例えば鈴木というおっさんがいたとする。

鈴木のおっさんは中間管理職だ。いつだって上司と部下の板挟みで、ストレスの多い立場にある。そのせいか額も寂しくなって久しい。

帰路についたとて、更年期な妻と反抗期な娘の板挟みになる毎日。気づけば居場所がない。いや、居場所があったことなんて……。

そんな鈴木のおっさんにも、ささやかなやすらぎがあった。

エレベーターの開閉ボタン、このボタンを押すときだけは不思議と安心できる。酒も煙草もやってこなかった。俺には開閉ボタンさえあれば大丈夫。おっさんの精神安定剤、心のよりどころ。さぁ、今日も開閉ボタンを――

奪えない。

それは鈴木のおっさんのやすらぎだ、鈴木のおっさんに押させてあげたい、鈴木のおっさんからボタンを奪わないでくれ、貴様におっさんのやすらぎを奪う権利があるのか。

なんの話してるの?

まぁボタンを置くときは「本当にこれはボタンがベストか?」と、一呼吸おいてみたらいいんじゃないかなと思います。