そのボタンは必要か
大きなビルで毎日エレベーターに乗るようになり気づいたのだが、人間というのはドアの開閉を支配したがる生物のようだ。ボタンの前に陣取り、出入り中は「開」を押し続け、終われば即座に「閉」を押す。
しかしこれは多くの場面で無意味である。開ボタンを押さなくても挟まれることはまずないし、最近はセンサーもついている。閉ボタンにいたっては反応しないようにしているエレベーターも多いし、なんなら閉じ始めた後に押している場面も珍しくない。
似た例に、押しボタン式の信号機がある。大半のものは既にその機能を停止しているが、やはり多くの人が押している。
どうやら世の中には無意味なボタンがたくさんあるようだ。
ボタンを省略する
私はプログラマーなので、ディスプレイ上でのことも考えてみる。
例えばなにかを入力して結果を出力するソフトがあるとして、よく見るUIに「実行ボタン」がある。
- 手順①:値を入力する
- 手順②:ボタンを押す
- 結果:出力される
という図式なのだが、手順②が気に入らない。内容にもよるがボタンを省略できるケースは多い。
- 手順①:値を入力する
- 結果:出力される
省略できるならこの方が効率的だろう。このサイトでもちらほらツールを公開しているが、なるべくボタンを使わないようにしている。例えばテキストを整形するツールはボタンなしで実行するようにしており、入力すると即座に変換する。
ボタンはなんの気なしに置いてしまいがちなUIだが、ボタンなしでも成り立つならない方が便利だと考えている。
ボタンの持つ不思議な引力
しかしボタンには不思議な引力がある。便利不便利を超越した「押したい」という欲求、あれはなんなのだろう。
エレベーターのボタンには興味のない私だが、幼いころバスの降車ボタンは押したくて仕方なかった。だれかに先を越されたら泣いた。ギャン泣きした。今では意味がわからないが、今でも気持ちはわかる。恥ずかしながら告白させてもらえば、今も押したい。降車ボタンには引力がある。
エレベーターの開閉ボタンを押す人も意味を求めているのではなく、引力を感じているのだろうか。私が気まぐれで押したくもない閉ボタンを押したとき、隣にいたおじさんは心でギャン泣きしていたのだろうか。
ハーバード大学の心理学教授であるエレン・J・ランガー氏が「ボタンを押す行為は認知制御として働く」と述べている。ボタンは機能しなくとも、ストレスを軽減し、幸福感を促進するそうだ。
また、ドレクセル大学の心理学教授であるジョン・コウニオス氏は「押すことが無意味だと知っていても、人はボタンを押したがる」と述べている。「エレベーターのドアが閉まるという報酬は最終的に必ず発生するから」だそうだ。
(参考:Pushing That Crosswalk Button May Make You Feel Better, but …)
なんだかボタンが尊いものに思えてきた。はたして「無意味だから失くせ」と切り捨ててよかったのだろうか。
例えば鈴木というおっさんがいたとする。
鈴木のおっさんは中間管理職だ。いつだって上司と部下の板挟み、ストレスの多い立場にある。そのせいか額も寂しくなって久しい。
帰路についたとて、更年期な妻と反抗期な娘の板挟みになる毎日。気づけば居場所がない。いや、居場所があったことなんて……。
そんな鈴木のおっさんにも、ささやかなやすらぎがあった。
エレベーターの開閉ボタン。
このボタンを押すときだけは不思議と安心できる。酒も煙草もやってこなかった。俺には開閉ボタンさえあれば大丈夫。俺の心のよりどころ、約束の地。さぁ、今日も開閉ボタンを――
――奪えない。
それは鈴木のおっさんのやすらぎだ、鈴木のおっさんからボタンを奪ってはいけない。私におっさんのやすらぎを奪う権利はない。
なんの話してるの?
まぁボタンを置くときは「本当にこれはボタンがベストか?」と、一呼吸おいてみたらいいんじゃないかなと思います。