ランキングは用法・用量を守って正しくお使いください

ランキング――それは限定的な要素をなんらかの成績/記録でソートした順位付けのリスト、序列、等級あるいは区分け。

見渡す人の世はランキングで溢れている。

テストの点数、売上、家電、音楽、容姿など、関心を抱きやすいコンテンツで構成されたランキングは多くの人の目を惹く。複雑な解釈を必要としないジャンクフードのような情報であるばかりか、それ自体がコンテンツになりえるというのだからおそれいる。人の世を席巻し、ランキングのやつはさぞご満悦だろう。この世をばわが世とぞ思ふといったところか。

私はランキングが嫌いだ。

やつらは見せかけの便利さを振りかざして、事実を隠蔽する。嘘じゃないけど正しくない、の典型だ。

例えば私が高校生だったとして、クラスメイトに恋をしていたとする。もう30過ぎてしまったけれど、そういうことにする。

あるとき高校生の私は、想い人が友達にこっそり明かした「異性の好感度ランキング」を手に入れたとしよう。対象は10人、自分も含まれている。見ずにはいられない。期待と恐怖。

七位。

――だったとして、私は落ち込むだろうか?

たぶん落ち込むだろう。いや確実に落ち込む、想像しただけで今ちょっと泣いてる。10人中7位は、低いと感じる。

しかし可能性を考えよう。想い人にとって7位までの人は好きの部類で、8位以下の人は嫌いの部類、という可能性。好感度を100点満点で表せるとしたら、

1位:97点
2位:95点
(中略)
6位:89点
7位:85点
8位:23点

という具合。この場合、7位の好感度は高い。想いが実る可能性は十分にあるのではないか、諦めるな。しかし同じくらいの落ち込みであろうはずの8位だったなら、かなり厳しい。

では1位だったらどうか?

きっと喜ぶだろう、めっちゃ喜ぶ。すぐ告る。しかし可能性を考えよう。

1位:14点
2位:13点
(中略)
10位:5点

絶望的だ、一番マシではあるが想いは実らないだろう。井の中の蛙とはよくいったもの、想い人は大海という名の合コンへ旅立つだろう。居酒屋 大海、たぶん刺身が旨い。

これらはランキングを鵜呑みにしていたら全くわからない情報だ。順位だけでは事実を計れない、対応を間違える。

異性の好感度ランキングならせいぜい失恋するだけだが、「貧しい地域のランキングを作って、順位に応じて支援額を決めよう」なんてことをしたら取り返しがつかない。

さらに懸念すべきは、そもそも順位が正しくない場合があることだ。

順位を決めるという行為は、なんらかの評価による並び替えといえる。プログラマーであればソートといった方がなじみ深い。ソートは単純に見えて難しい問題である。

順位が正しくない例に、勝敗によるソートがある。

例えばテニスなどで用いられる勝ち抜きトーナメント、これは勝敗によって導いた実力のソートといえる。しかし単純な勝ち抜きの場合、一位以外の順位には根拠がないのだ。もし初戦で一番の実力者と二番の実力者がぶつかったら、二番の実力者は初戦敗退、最下位である。

勝敗で完璧なソートをするには総当たり戦が必要だが、これは参加者が増えるごとに試合数が二乗オーダーで増えるため現実的ではない。戦いをソートするのは難しいのだ。また、実力のある方が勝つとはかぎらないという特性もある(「ノイズのある比較」という)。

一方で順位が正しい例に、点数によるソートがある。

例えばマラソン、これは比較方法が勝敗ではなく記録(点数)による競争なので、どれだけ出場者が増えても一回の計測で完璧にソートできる。これなら実は二位と五位が逆でしたなんてことにはならない。

ランキングは「その順位に価値はあるか」に加え、「その順位は正しいか」にも注意が必要なのである。

とはいえランキングが有用な場面もある。

限られた選択肢の中から「一番マシ」な選択をしたい場面だ。必要十分な能力があるかはどうでもよくて、とにかく一位を選びたい、選ぶしかない状況である。それがトーナメントのような「戦い」によるソートだったとしても、一位だけは順位に正当性があるので問題ない。

重要なのは目的が「良い」ではなく「一番マシ」であるということ。

例えばどんな場合があるだろうか。チャーチルを引用して締めとする。

選挙に出るヤツなんて、ろくでなしばかりだ。金儲けしたいヤツ目立ちたいヤツ、いずれにしても立候補するヤツはろくでなしばかりだ。まっとうなヤツは選挙になんか出ない。そういう人の中から、誰に税金を分配させたら相対的にマシか、という忍耐のことを選挙と呼ぶのだ。

だから、民主主義は最低の制度なんだ。皇帝制や王制など、これまで試みられてきた他のあらゆる政治形態を除いては。

ウィンストン・チャーチル(元英国首相)

参考書籍


アルゴリズム思考術:問題解決の最強ツール