傘の不完全さは最善か

雨の日には傘をさす。それだけで雨を避けられるというのだから便利な発明である。しかし足元を見れば、ビチョビチョになっていることに気がつく。傘は雨を完全には防いでくれない。

ビチョビチョの足元を見るたび「どうにかならんのか」と考えるが、同時に「到達点」という概念もよぎる。傘の形はすでに到達しており、この不完全をもって最善なのではないかという諦めにも似た思索である。

というのも傘はその形を四千年に渡って変えておらず、古代エジプトの壁画にも見慣れた傘が描かれているそうなのだ。もしかしたらクフ王も私と同じように足元をビチョビチョにし、同じように「どうにかならんのか」と思い悩んでいたのかもしれない。なんだかクフ王に親近感がわいてきた。

ここまで形を変えない道具も珍しいのではないか。壁画はディスプレイになったし、ピラミッドは高層ビルになっている。

でも傘はずっと傘。

材質は進歩したし安価にもなったが、雨を避ける力は全く変わっていない。クフ王も私も足元はビチョビチョ。人工知能や宇宙開発が熱を帯びてなお、人類は雨を避けきれずにいる。

これだけの時間を経て形が変わらないということは、傘は既に最善の形に到達しているのかもしれない、と思うのだ。

ものづくりを生業にしているとよくぶち当たるが、最善は完全とは限らない。機能面だけで完全を目指せばどうとでもできるとしても、納期が、影響範囲が、責任が――と、人間社会には様々な都合がある。それらを無視して完全を作っても、それは完全なゴミでしかない。

雨避けの道具は傘の他にも笠やカッパがあるが、持ち運びやすさ、占有面積、価格、ファッション性といった種々の条件と折り合いをつけて人類が選択したもの、それこそが四千年変わらぬ傘という形であり、不完全な最善なのではないか。爪や牙の鋭い生物が生き残るとは限らないように、より雨を避けられる道具が生き残るとは限らないのだろう。

もしそうならば、今後も傘の形はそう変わらないはずだ。四千年後の人類も火星の雨で足元をビチョビチョにし、「どうにかならんのか」と思い悩む。私やクフ王がそうであったように。

クフ王と私と火星人、足元はみんなビチョビチョ。